| ドイツ道中記 ━ロシア編━ |
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サンクト・ペテルブルクの巻 |

《ロシアのお勉強》 正式国名:ロシア連邦 ヨーロッパからアジアにまたがる大きな国。永久凍土から砂漠まで、国土の様子もさまざまであるが、全体的に寒冷な厳しい気候である。 |
いよいよロシアへ出発する日。前回は関西空港集合だったので、朝早く羽田空港発の飛行機に乗らなければならなかったが、今回は成田空港集合なのでラクチン。N子と2人、JRで成田空港第2ターミナルビルへ向かう。
アメリカの同時多発テロ以降、日本の空港でも警備が厳しくなった。成田空港の入口にも検問が設けられ、警察官が入場者を1人1人チェックしており、私は身分証明ができなくていきなり最初の検問に引っかかった。パスポートはビザ取得の都合で旅行会社に送っており、空港内のカウンターで引き渡しということになっているので、当然空港の入口で持っているはずはなく、運転免許証等もロシアでは必要がないのとなくしたら困るのとで持ってこなかったのである。結局、クレジットカードで名前を確認するという手段で手を打ってもらい、ようやく空港に入ることができた。先が思いやられる。
カウンターで添乗員S馬さんやツアーの参加者と初顔合わせ。やっぱり、ややお年を召した方々が多いか…。若者(と胸張って言える年齢でもなくなってきたが)は我々2人のほかにもう1組だけ。ちなみにS馬さんは、ベース漫談のはなわにちょっと似ている。
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で、成田空港ではいきなりこれ。 ベンチで不審物が発見され、警察官が出動する騒ぎに。出国する前から爆弾騒ぎに巻き込まれてもいけないので、急いでその場を離れてさっさと出国する。 |
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出国手続き後、搭乗ゲート付近はこんな状態。左から順に、レスリング女子72kg級の浜口京子選手、柔道男子100kg級の井上康生選手、ハンマー投げの室伏広治選手。13日に開幕するアテネオリンピックに参加するため、飛行機に乗るところ。
この3人、金メダルが有力視されながら、この後の競技で1人も金メダルを取れなかった。ということで、この3枚の写真は呪いの写真と呼ばれている。(室伏選手はその後繰り上げ金メダルとなった)
井上選手は荷物を全然持ってないのに、写真に写っているカート(スーツケースなどを運ぶ台車)に終始寄りかかるようにして歩いていた。今にして思えば、この時すでに足の調子が良くなかったのではないだろうか。国内の試合で足を怪我していたとも伝えられているし。
…と、混乱する搭乗ゲートにて、我々は1時間30分待ち。アエロフロート576便の遅れにより、12:00出発の予定が13:30出発に繰り下げられてしまったのである。仕方がないので、井上康生選手を見ながらうどんをすすったりして時を過ごす。
せっかくロシアへ行くのだから、アエロフロート・ロシア国際航空を利用する。モスクワ行きの飛行機はいわゆる“ジャンボジェット”ではないが、ボーイング767を使っていて、それなりに快適。あまり大きい飛行機だと座席が3列・4列・3列になっていて、窓側の席になるとトイレに立ちにくかったりするのだが、このくらいの大きさなら2列・3列・2列なので、どこの席になっても安心である。 ちなみに、東京−モスクワ間を飛んでいるアエロフロート機は、写真に写っているこの1機だけ。この1機が絶えず行ったり来たりしているのである。したがって、帰る時に乗るのもまったく同じ飛行機の予定。1週間後に帰国するまでに遅れを取り戻せるか? アエロフロート・ロシア国際航空→ www.aeroflot-japan.com
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飛行機は予定通り?1時間半遅れで出発。ここからモスクワへ向けて、10時間20分の空の旅。
| 最初の機内食。 アエロフロートであるが、食事を積み込むのは日本なので、右端あたりのメニューにまだ日本の雰囲気がある。 |
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10時間もかかるとはいえ、他のヨーロッパ諸国に比べればモスクワは近い方。北欧旅行で16時間も飛行機に乗った我々にとっては屁でもないのである。しかし、機内食の片付けの早さ(まだ食べ終わってないのに片付けに来る)と、座席のコントロール・パネルが壊れていて映画の音声が聞こえないのにはちょっとまいった。(映画は「シュレック2」だったので、ちょっと観たかった……というか、アントニオ・バンデラス演じる長靴をはいた猫の声を聞いてみたかった)
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シベリア上空を通過。 |
機内食を2回食べて、映画を観て、ちょっと眠れば、10時間のフライトなんてあっという間。
その間に、今回の旅程をチェックし直し、プロポーズに良さそうな場所を選定することにする。今回のロシア旅行では、8日間の日程でヨーロッパ・ロシアの二大都市であるモスクワとサンクト・ペテルブルクを巡る予定になっている。サンクト・ペテルブルク近郊を2日ほどかけて観光した後、寝台列車に乗ってモスクワへ入り、そこから「黄金の環」と呼ばれる古都群を巡ってから、最後にモスクワを観光するというツアーである。
ツアーの最初にプロポーズしたとして、万が一断られでもした場合はその後の旅が非常に気まずくなってしまう……と考えると、やはり旅の終盤にプロポーズポイントが欲しい。となるとやはりモスクワで攻略すべきか。モスクワの主な観光ポイントを調べると…
○赤の広場でプロポーズ……「レーニン廟に誓って、君を幸せにするよ」…って、わたしゃ共産主義者か。
○聖ワシリー聖堂でプロポーズ……「一緒に世界遺産になろう」。意味がわからん。
○グム百貨店でプロポーズ……デパートでしょ…
○モスクワ大学でプロポーズ……卒業したわけでもないしな…
○ノヴォデヴィッチ修道院でプロポーズ……由来がわからん。
○ボリショイサーカスでプロポーズ……言い出すきっかけがつかめん。
○クレムリンでプロポーズ……かつて世界の共産圏の司令塔だった場所。「僕と世界革命しないか?」なんて却下。
モスクワのイメージって、旧共産圏のいかついイメージがあって、どうにもプロポーズとは無縁な感じがしてならない。このプロポーズ旅行、ほんとに成功するのか? 情熱の国スペインの方がプロポーズしやすかったような気もするが、もう遅い。
難しい顔をしている私の隣で、コーヒータイムのN子は楽しそう。
シェレメチェヴォ国際空港Шереметьево II www.sheremetyevo-airport.ru 首都モスクワの国際空港。第1ターミナルが国内線、第2ターミナルが国際線なので、我々が着いたのは第2ターミナル。 現地時刻で夕方6時くらいに到着し、その後入国審査だのスーツケースの受け取りだので時間を取られたので、ここまで出てきたときには夜8時を回っていた。明るいけど、夜8時なんです! ロシアの空港では、スーツケースをこじ開けられて中身を盗まれることがよくあるという。首都の国際空港においてもそれは例外ではない。我々も、成田空港でスーツケースを預ける時にガムテープでぐるぐる巻きにして、少しでも開けにくくしておいた。幸いにも?スーツケースは開けられておらず、無事に戻ってきた。この後飛行機を乗り継いでサンクト・ペテルブルクまで行くというのに、モスクワで一旦荷物を返してもらうのも、こういった盗難を防ぐ自衛手段の1つであろう。(荷物の乗り継ぎを空港に任せると、その間に盗難にあうということなのだ) |
ここからバスに乗って第1ターミナルへ移動し、サンクト・ペテルブルク行きの国内線に乗り換える。
第1ターミナルは……日本の地方空港のような雰囲気。それよりもう少し粗末かもしれない。ターミナルの中は搭乗客でごった返しており、そこで1時間くらい待つ。とにかく待つ。待っていると搭乗手続きが開始されたことがアナウンスされるので、搭乗ゲートに並び、そこでも待つ。ひたすら待つ。ロシアではとにかく辛抱強く待つ姿勢が重要であることを、到着初日から思い知らされる。飛行機にたどり着いたのが夜10時過ぎ。
国内線では、日本の空港の搭乗ゲートのように飛行機に直接乗り込むようにはなっていない。一旦バスに乗って飛行機のそばまで行き、タラップを登る。“空港”というより、昔の“飛行場”の雰囲気。
| 国内線もアエロフロート。 機体はツポレフ154M。旧ソ連製の中型ジェット旅客機である。さすがにプロペラ機ではない。 昔は空港での撮影は厳禁だったが、今は撮っても大丈夫。ちなみに私は長袖をスーツケースに入れてしまったので、ホテルに着くまで半袖。寒い! |
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アエロフロートでは、団体客でも近くの席に座れるとは限らない。それどころか、2人で乗っても隣同士になるとは限らない。1時間半の夜間飛行の間、N子とはしばしの別れ。乗務員は融通が利かないので、席替え不可。
ジャムパンのような機内食が出て、それを食べたらほかにすることがなく、座席のバスケットに入っている「緊急時の手引き」を何となく取り出して見る。ツポレフ154が不時着した時の脱出手順は、以下の通り。
1.ドアのカバーを開ける。
2.カバーの中のハンドルを回す。
3.外れたドアを外へ放り投げる。
…ツポレフの機体右側の2ヵ所のドアだけはちょうつがいがついていないらしく、開けたら外へ投げ捨てるらしい。字で説明が書いてないので本当にそうなのか自信がないが、絵はどう見てもドアを機外に放り投げているように見える。さすが旧ソ連機。しかし、この面白さを共有する相手が近くに誰もいないので、しばらく1人でニヤニヤした後、仕方なく寝る。
サンクト・ペテルブルクへはすんなりと着陸。アエロフロートでは、なぜか着陸時に乗客から拍手が沸き起こる。
プルコヴォ空港Пулково I モスクワのシェレメチェヴォ空港と同じく、第1ターミナルが国内線、第2ターミナルが国際線である。我々は国内線で到着したので第1ターミナル。 日付が変わるぎりぎりのところで到着し、それからスーツケースが出てくるのを延々と待った。疲れていたからか、なんだかやけに長く待った気がする。「きっとスーツケースをこじ開けているから遅いのだろう」などと言っていたが、ここでも誰もこじ開けられることなく、無事に荷物を受け取ることができた。一安心。 バスに乗ってホテルへ出発したのは12時過ぎ。 |
バスはプルコヴォ空港を出発し、プルコフスカヤ通りを通って、プルコフスカヤ・ホテルへ。地名がみんな似てるのがなんともロシア的で微笑ましい。
部屋に着いたのが深夜1時半。さすがにくたびれて、シャワーを浴びたらさっさと寝てしまう。旅の前半、プロポーズのことはとりあえず忘れることにする。
男爵メモ САНКТ ПЕТЕРБУРГ
サンクト・ペテルブルク市→ http://gov.spb.ru/ |
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朝起きて、部屋の窓から最初の1枚。雲は多いが、今日もいい天気になりそう。 |
我々が宿泊したホテル。プルコヴォ空港から最も近いホテルなのだが、市街中心部からはやや離れている。『地球の歩き方』ではその点を「難」と評価しているが、観光バスで移動するツアー旅行ではあまり関係がない。むしろ、周りに何もなくて静かでいいかもしれない。 巨大なモニュメントが立つ“勝利の広場” Победы Площадь に面しており、住所も「勝利広場1番地」である。 写真はホテルの正面。ホテルは2棟に分かれており、この建物の裏側にもう1棟ある。我々が泊まったのは裏側の棟で、部屋から撮った写真に勝利の広場が写っていないのはそのため。ちなみに、隣り合った棟と棟が通路などでつながっていないという、日本人には理解不可能な構造をしている。 |
2日間にわたるサンクト・ペテルブルク観光の初日。今日は市街中心部をバスで観光して回る。
市街中心部へ向かう途中にあった、巨大な銅像と巨大な建物。単科大学(旧レニングラード市議会)である。立っているのはクラーク博士ではなく、もちろんレーニン。後ろの建物にも、“革命的”なレリーフがびっしり。バスの車窓から撮影した。写真では大きさがよくわからないが、本当にでかい! ロシアでは、びっくりするほど巨大な銅像や建物があちこちにあるのだが、周囲に比較対照物がなかったり、周囲の物もみんな巨大だったりするため、正面から普通に写真を撮るとその大きさと感動がうまく表現できない。その写真を人に見せても「ふーん」としか言ってもらえなかったりする。これからロシアに行って写真を撮る人は、被写体の巨大感を出す工夫を! この写真は典型的な失敗例。手前の広場がだだっ広いので、大きさの感覚を失う。でもこれ、本当にでかいの! |
バスはモスクワ大通りから市街中心部へ入り、旧海軍省方面へ。サンクト・ペテルブルクは元は軍港都市であるため、旧海軍省へ向かって3本の大通りが集まる形になっている。したがって、旧海軍省の周辺が一番の繁華街であり、最もサンクト・ペテルブルクらしい風景を見ることができる。

イサク広場
Исаакиевская пл.
旧海軍省のすぐ南西側にある、イサク聖堂の正面に広がる広場。奥に見える金色のドームの建物がイサク聖堂。左側に写っているのがニコライ1世の騎馬像。
ロシア正教の聖堂で、皇帝ニコライ1世の命令で1818年から40年もの歳月をかけて建設された。高さ101.5m、幅97m、奥行き110m、収容人数1万4000人という巨大な聖堂だが、“世界に3番目に大きな聖堂”と言われている。世界で1番・2番にはならないが、3番手につけてくるところにロシアっぽさを感じる私。1番目・2番目に大きい聖堂というのはどこなのでしょうか。 ちなみに、右側にちらっと写っている茶色の建物はアストリア・ホテル Астория 。1912年創業で、サンクト・ペテルブルクで一番古いホテルと言われている。古いというだけではなく、最高級のホテルでもある。五つ星。 アストリア・ホテル→ http://www.astoria.spb.ru/ |
ニコライ1世の騎馬像Николаю I 自分が建てさせたイサク聖堂の方を向いて立つ、ニコライ1世の騎馬像。 騎馬像の後方にはマリア宮殿。現在はサンクト・ペテルブルク市庁舎として使われている。宮殿が市役所……なんとぜいたくな。 |
マリア宮殿前には車がたくさん止めてあるが、実はここは橋の上。ニコライ1世の騎馬像の後ろからマリア宮殿まではほとんど橋の上なのである。観光バスが何台も止まれてしまうほどの広さを持つ橋で、もちろんサンクト・ペテルブルクで1番の広さを持つ。橋だと言われないと気がつかないくらい。左の写真のような風景を見ると、橋だということがわかる。モイカ運河 Р.Мойка にかかる橋で、幅は広いが長さはさほどでないこともよくわかる。欄干の色から、“青い橋”という愛称で呼ばれている。向こうに見えるのが“赤い橋”。ちなみに、反対側には“緑の橋”もある。 |
この後、イサク聖堂の反対側にある元老院広場 Сенатская пл. へ移動。

青銅の騎士
Медный Всадник
元老院広場の端に立ち、ネヴァ川の方を見つめるピョートル大帝の騎馬像。これが“青銅の騎士”と呼ばれるのは、詩人プーシキンが叙事詩「青銅の騎士」にこの像をうたったため。像は女帝エカチェリーナ2世が建てさせたもので、台座には「PETRO PRIMO CATHARINA SECUNDA」という献辞が書かれている。
この写真では見えないが、馬は後ろ足で蛇を踏みつけている。ピョートル大帝が破ったスウェーデンを意味するとも、国内の反対勢力を表すとも言われている。
青銅の騎士が立つ広場の西側にはかつての元老院の建物(左写真)があり、そのために広場は“元老院広場”と呼ばれていた。1825年12月、皇帝ニコライ1世の即位に際し、専制政治に反対する軍の青年将校たちが反乱を起こし、この広場を占拠した。“デカブリストの乱”と呼ばれるこの事件はすぐに鎮圧され、関係者は厳重に処罰された。この事件を記念して、1925年に広場の名前が“デカブリスト広場” Площадь Декабристов に変更された。(ソ連時代には帝政の名残をなくすためにこういう改称がよく行われたのだ) 1992年に元老院広場という名に戻されているのだが、今でもデカブリスト広場の名で親しまれている。 |
こういう歴史の舞台を見たかったんだよ!とタダッチ卿大興奮。同行者N子は「へー」くらいの感慨。それよりも薄手の服で来てしまって寒いということの方が大問題だったようで、ウィンドブレーカー代わりにヤッケを着て歩いていた。
元老院広場から、ネヴァ川をはさんで対岸に見えるのがペトロパブロフスク要塞。ひときわ高く金色にとんがっているのが、要塞内にあるペトロパブロフスク聖堂 Петропавловский Собор の尖塔。高さ121.8m、サンクト・ペテルブルクで1番高い建物で、先っちょには天使がとまっている。 サンクト・ペテルブルクは、元はといえばスウェーデンと戦ってバルト海への出口を確保するために建設された街で、そのために最初に造られたのがこの要塞なのである。サンクト・ペテルブルク見学に欠かせない場所だと思うのだが、なぜか今回のツアーではここを訪れない。それどころかネヴァ川の向こう岸にも行かないという予定だったので、仕方なくここから写真だけ撮っておいた。 手前の橋は宮殿橋 Дворцовый Мост 。 |
ここからバスでエルミタージュ美術館の脇を抜け、細道をぐるぐると走ると……目の前にいきなり現れる、美しい聖堂。その光景に、ツアー客全員が思わずため息をもらした。

スパス・ナ・クラヴィー聖堂
Спас на Крови
www.cathedral.ru
1881年、皇帝アレクサンドル2世は急進的過激派の爆弾テロで死去した。その子アレクサンドル3世は即位後、暗殺現場に父帝をしのぶ聖堂の建設を命じ、24年かけて完成したのがこの聖堂である。“スパス・ナ・クラヴィー聖堂”とは、“血の上の聖堂”という意味で、正式にはキリスト教復活教会 Храм Воскресения Христова という。
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玉ねぎ型のドームを持つ、ロシアの伝統的な聖堂の形(この形は一見イスラム建築っぽいけど、ロシアの伝統建築です)。外壁は細かなモザイク画で飾られ、遠くから見ても近くで見ても飽きない。中の見学はしなかったが、内装もモザイクで飾られているそうだ。いずれもモザイクの巨匠フロローフの作品。 ちなみに、聖堂の設計案は一般公募されたもので、アレクサンドル3世が自ら選んだという。 |
聖堂の前の広場はお土産市場になっていて、土産物を並べた屋台がところせましと並んでいる。マトリョーシカ(入れ子人形)や小物入れ、アクセサリー、絵や彫像、帽子、旧ソ連グッズなど、食べ物以外の土産物ならたぶんここで何でも手に入ってしまう。 時間がなくてゆっくり見て回れなかったので、スパス・ナ・クラヴィー聖堂とお土産市場にはもう一度行ってみたい。これから行く人は、ここで十分に時間を取るべし。 |
再びバスで市内をぐるぐる走り(市内は一方通行の道路があちこちにあって、複雑なルートを通らないと目的地に着かない)、バレリーナ養成学校を見学しに行く。
マカロフ・バレエ学校この写真を見せて、「これがマカロフ・バレエ学校です!」と紹介していいものやら、ちょっと迷ったのだが……外観の写真がこれしかないのだから仕方があるまい。ちなみに、通りに面した3〜4階建てのアパートが壁のようになっていて、その門をくぐり抜けて中庭に出ると写真の建物がある。 サンクト・ペテルブルクには由緒正しいバレエ学校が3つあり、マカロフ校はそのうちの1つ。建物の外観を見れば、そういった歴史と伝統に裏打ちされていることがよくわかる。 一言で言うと「ボロい」のだが、ロシアでは、建物の外観がボロくても、中はきれいに手入れして使っていることが多いので、このくらいのボロさは全然問題ではないのである。足場が組んであるということは、修理をしているということでもあるし(解体しているわけではない)。 |


バレリーナたちの練習風景をしばし見学。バレエはロシアを代表する芸術のうちの1つである。さすがに本場のバレリーナはきれいです……男も女も。男の先生(写真には写ってないけど)はお腹も出ちゃって、“気さくなスターリン”って感じだったが、現役時代に賞をとったこともある立派な人なんだそうだ。
写真撮影可(ただし100Р)というので写真を撮ってみたが、照明が暗いのと動きが速いのとで、まともな写真はほとんど撮れなかった。
最後にちょっとサービスで、ちゃんとした衣装でちょっと踊って見せてくれた。ここまで見てしまうと、やっぱり本物の舞台を見たくなってくる。今度ロシアに来る時には、ここで練習しているバレリーナの卵たちが舞台にのぼっているかも? がんばってね。
さて、バレエも見たし、次の観光地であるエカチェリーナ宮殿へ向かう。エカチェリーナ宮殿は、サンクト・ペテルブルクから30kmほど南へ行った、プーシキン市という所にある。郊外の風景を見ながら、1時間ほどバスで移動。
到着したら、エカチェリーナ宮殿のすぐそばにあるレストランでまずは腹ごしらえ。朝食はビュッフェ形式だったので、ロシアらしい食事はこれが初めて。楽しみ。
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まずはボルシチ борщ 。赤かぶのスープで、赤いのは赤かぶの色。 ほどよい酸味があって、食欲を誘う。色のせいもあって、トマトスープっぽい印象を受ける。 |
| 続いてつぼ焼き
говядина в горшочке 。文字通り、つぼの中に材料を入れて、パン生地でふたをし、オーブンで焼いた料理。さざえのつぼ焼きとはちょっと違う。 中身はビーフ・シチューのような感じ。こってりした味付けで、かぶせてあるパン生地を入れて食べるとえもいわれぬおいしさ。 |
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最後にデザートのアイスクリームとコーヒー(またはお茶)が出て、食事は終わり。スープ、メインディッシュ、デザート+コーヒーという3点セットが、ロシアのレストランで出る標準的なメニュー。ちょっとはりこむとこれに前菜がつくが、メインディッシュが結構重いので3点セットで十分。
腹もふくれたところで、エカチェリーナ宮殿へ。食後の散歩にちょうどよい。
レストランの脇に止めてあった、ロシア製乗用車。たぶん、“ラーダ” ЛАДА というメーカーのもの。日本では中古車を通り越してクラシック・カーの部類に入りそうだが、ここロシアでは立派な現役である。道路を走っている乗用車の半分くらいはこのタイプだったように思う。とにかくよく見かける車。 昔の日本の乗用車くらいの大きさで、体の大きなロシア人には少々きついような気もするのだが、これに4人乗って田舎道を走っているようなことも普通にある。あと、道路脇に停車してボンネットを開け、ドライバーとおぼしきおじさんがエンジンルームをのぞきこんでいるのもよく見かける。故障しても直せるということか? ラーダの名は日本ではあまり耳にしないが、ロシア最大の自動車メーカーで、今でも車を作っている。さすがに写真のような型はもう生産しておらず、もっと今風なデザインになっているが。 ラーダ→ www.vaz.ru/ |
公園には詩人プーシキンの像。この地はもともと“ツァールスコエ・セロ” Царское Село (皇帝の村)と呼ばれ、帝政時代には皇帝の離宮が置かれていた。しかし、ソ連時代にプーシキンを記念して“プーシキン市”となった。プーシキンはここにあった学習院 Лицей で学び、ここで多くの作品を書いたので、住民もプーシキンには特別な思い入れがあり、住民投票で“プーシキン市”に決まったという。 プーシキンが妻と共に住んでいた家は、現在プーシキン記念館 Музей-Дача А.С.Пушкина として公開されている。余談だが、プーシキンの妻はとてつもない美人で、その美しさが結果的にプーシキンの死の遠因となったという。 |
プーシキンの像の前を通り過ぎて、豪華な門をくぐると、その中がエカチェリーナ宮殿。宮殿内に大勢の見学者が殺到しないよう、入口で入場制限がかけられるため、門の前で並んで入場を待つことになる。長く待つか、短くすむかは時の運。

エカチェリーナ宮殿
Екатерининский Дворец
www.tzar.ru
エカチェリーナといったら女帝エカチェリーナ2世が有名だが、この宮殿はピョートル大帝の妻のエカチェリーナ(後のエカチェリーナ1世)のために建てられたもの。2人の娘であるエリザヴェータ女帝が建築家ラストレリに改築を命じ、ロシア・バロック様式の宮殿となった。エカチェリーナ2世も後にこの宮殿で暮らしており、宮殿の外壁の空色は彼女のお気に入りの色だったとか。
第二次世界大戦でドイツ軍に占領され、ほとんど破壊されてしまった。現在の宮殿は、その後の国家的な修復事業によって再建されたもので、現在も内装の修復は続いている。ちなみに、この修復作業にはドイツもお金を出している。責任取るのも大変である。
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中はこんな感じ。この部屋は油絵で壁を埋め尽くした“絵画の間”。 宮殿内部は、55の部屋がつながる形(アンフィラードという)になっており、その1つ1つに特徴がある。 部屋の真ん中に立っている白っぽいものは、デルフト焼きの暖炉。 |
さりげなく置かれたテーブルも、実はラピスラズリ製だったりする。ほかにも、緑色の孔雀石を使った壷だの、金や銀で装飾された家具だのが並んでいる。驚くべきことに、各部屋に置かれている家具や装飾品、絵画などは、ほとんどがオリジナルの物。宮殿はドイツ軍に占領された時に破壊されたが、調度品は占領前に全部まとめて隠されたので、無事だったのだ。ガイドのサビーナさんの話によれば、調度品は土の中に埋められていたので、ドイツ軍も気づかなかったのだという。本当かどうかはわからないが、現に品物はこうして無事だったわけで、文化財を守ろうとする執念に脱帽。 |

琥珀の間
Янтарная Комната
残念ながら、埋められなかったものはドイツ軍に略奪されてしまった。その最も代表的なものが、この琥珀の間。部屋の壁を琥珀の装飾で覆い尽くしているというとんでもない部屋である。琥珀の微妙な色の違いを利用し、モザイクのようにはめ込んで模様や装飾を作り出している。
この琥珀はもともと、プロイセン王フリードリヒ=ヴィルヘルム1世が冬宮の書斎の装飾用にとピョートル大帝に贈ったものだった。しかし、ピョートル大帝は琥珀があまり好きではなかったのか、それとも琥珀で埋め尽くされた書斎は落ち着かないと思ったのか、琥珀を全て娘のエリザヴェータに贈ってしまった。エリザヴェータはこれを使って琥珀の間を造らせたのである。第二次大戦中、ドイツ軍によって琥珀ははがされ、持ち去られてしまったが、ガイドのサビーナ女史の言葉を借りれば「自分の国からの贈り物を、自分で持って帰った」ということになる。戦後、ドイツの資金で新たに琥珀を張り直し、2003年に修復を終えて公開された。
この琥珀はオリジナルではない。ドイツ軍が持ち去った大量の琥珀は現在まで行方不明となっており、いまだに捜索が続けられている。バラバラになってしまったという説もあるが、軍がまとめてどこかへ隠したという説もあるらしい。徳川埋蔵金とか、旧日本軍の山下財宝みたいなものである。
エカチェリーナ宮殿では写真撮影は自由だが、この琥珀の間だけは撮影禁止。上の写真は絵葉書。
もう1つ有名なのが、こちらの謁見の間。別名“鏡の間”。ヴェルサイユ宮殿の同名の部屋より大きくて立派。ここへ来た最初の日本人が、江戸時代の船頭・大黒屋光太夫。18世紀末、伊勢から江戸へ向かう途中で難破し、8ヵ月も漂流したあげくロシア船に救助された光太夫らは、はるばるここまで来て女帝エカチェリーナ2世に謁見し、帰国の許可を求めた。エカチェリーナ2世はこれを聞いて「オオ、ジャコウ(まあ、かわいそうに)」と言ったという。 井上靖がこれをもとに小説『おろしや国酔夢譚』を書き、緒方拳主演で映画化された。観た人も多いはず。 |
| そんなことを思いつつ、しばしのタイムスリップ。 | ![]() |
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外へ出てみる。 宮殿の周りは広大な庭園で取り囲まれている。その広さ、600万m2。庭園内で遭難できる広さ。 |
| 庭園内には池や湖もある。この湖は、エカチェリーナ2世のプール。夏にはここで泳ぎ、奥のレストハウスでくつろいだという。 | ![]() |
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庭園を散策していると、こんな風景に出会えるのが楽しい。 |
| 庭園の外では、お土産屋さんが屋台を広げている。 | ![]() |
帝政ロシアのまばゆいばかりの遺産を見せつけられ、頭がぼーっとなったところで今日の観光はおしまい。早めにホテルに帰って夕食を食べた後は、自由時間となった。昨日は夜遅かったし、ちょっと疲れたので部屋でしばらく休憩。
休憩後、ホテルの周りをちょっと自主観光し、しんみりした気分になって帰ってきた。(自主観光の模様はこちら)
トルストイではないが戦争と平和に思いをはせつつ、ベッドに入る。